こんにちは。
牧阿佐美バレエ団の渡會慶です。
先日27歳になりました。
弥生時代ならもはや寿命、
ここまで育ててくれた両親、そして友人や恩師やJR東日本に感謝を。
小学生の頃は20代は立派な大人だと思っていました。
就職して仕事に励む。
初めての車を買って、免許更新
仲間と切磋琢磨、ときには喧嘩をしたり励ましあったり 免許更新
出会いもあり、別れもあり 免許更新
免許更新に次ぐ 免許更新
初めは免許のために免許更新していたのに、そのうち免許更新のために働くようになって、同棲中の免許に、私と免許どっちが免許なの??と免許ラれる。
なのに、現実の私は、毎日今日はどのグミを食べようかなーーしか考えない。
みなさま、世の中で一番良いグミのペタグーグミのグレープ味を食べてみてください。
おいしいので。
わたしは本番の週、劇場に入るときはたくさんのお菓子を買うのですが、先日コンビニでおばあさまの店員さんにお会計していただく際、
「遠足かい!?良いおうちで育ったんだろうねえ、(選ぶ)お菓子がちゃんとしてる。」
と、お前の選ぶお菓子は立派だ、という人を評価するには極めて不安定な理由で褒められたことがあります。
まあ実際ドライフルーツや明治のマカダミアチョコを買っていたり、なにより
つ ぶ ぐ み ではなく
ポ イ フ ル をチョイスするという、完全に “解ってる” お菓子玄人ムーヴを無意識のうちにかましてしまっていたので当然といえば当然なのですが、、、、
、、、、、
このままだとただの毎日グミを食べてる人なので
ダンスのお話をします。
私はダンスを踊ることもみることも好きなので
今年はずっと、つらかったのですが、8月、10月と舞台に立つことができて幸せな気持ちでした。
改めてダンスはとても良いですね。
時々なんでこんなにダンスが好きなんだろ、と考えるのですが、これだという答えがでません。
しかし先日、トワイラ・サープという振付家の「In the Upper Room」という作品を動画でみていたら少し踊ることについて考えることがあったので整理します。
この作品は抽象的な作品で、ひたすら踊っています。
パジャマのような衣装を着たダンサーたちが、もやもやした舞台上でフィリップ・グラスのシンセサイザーの単純な音の繰り返しに乗って登場して踊っては捌け、また登場して踊り捌ける。まるで何かから逃げるように踊りまくっているのがとても美しい作品です。
アブストラクトなバレエは、人間のままどこまで人間のイメージから離れられるかのその距離がかっこいいと思っています。
それは超絶技巧のテクニック等、ということではなく、人が何かするときや日常で人が人をみるときの人たらしめている人くささ、のようなものから舞台でどこまでそれを身体から切り離せるか?という問いにクールさ美しさがあると思っていて、
私はそれがずっと人が自分の身体を使うダンスというアートの永遠の課題だと思っています。
この作品では終始、フィリップ・グラスのつくる音の繰り返しがメロディになっており、その音程が変わっただけで急に何かストーリーのようなものが、みている自分の心象風景のなかで立ち上がってくるような、そんな説明のつかない良さがあります。
音楽はその人間的なものを、人間くささを軽々と乗り越えています。それがわたしが音楽を好きな理由のひとつで、だからますますわたしたちは音楽的に踊るのではなく音楽のように自分の文脈を乗り越えて軽やかに動けたら、と思います、ダンス。
今年、みんなが外に出るのやめて、星野源がうちで踊ろうと歌っていたときに
本当の意味でダンスしていた人は、自分の身体と向き合っていた人は一体どのくらいいたのかなあ、などと
本人は全くそういう意味ではないと思うのですが個人的には時間がありすぎたので、その言葉で踊るということについて考えてしまいました。
音楽に合わせて振り付けを考えてカウントで動くことだけがダンスなのか、無音でくねくねゆっくりと意味深に動いたり、インプロヴィゼーションで自分の手の届く範囲でせわしなく速く動くことが重要なダンスなのか。
良いと思うもの、好きだと思うことに敏感になる。
自分にとって何が美しくて、何がそうではないのか考えること。
どんなダンスでも、また、ダンスのみならずこの世の全ての瞬間に美しさ、これから美しくなる可能性は平等にあって、その感性、それに気付くことがダンスの醍醐味だと思えてきます。
そしてその気付きは必ずしも自分の踊りの動きには直結しないとしても、1人の人間としてダンスする身体としてそこに立って居られることを支えてくれると思うのです。
自分も説得力のあるダンスをしたいです。
そんなことをこの作品をみながらぼんやり考えました。
みなさまもくれぐれも体調にはお気をつけください。
一刻も早くみんなが同じ場所にいられるときがきますように